奥井理の遺稿集「19歳の叫び」のあとがきを書いてくれた加藤多一さんが亡くなりました。

3月18日、加藤多一さんが亡くなりました。10月ケア付きマンションに入所した加藤さんにコロナ化でまったく会えずにいたのですが、やっと何年ぶりかで会うことができてこれからもお世話になれると喜んでいた矢先のことでした。

 多一さんは滝上町の田舎で育ち苦学して北大に入学されやたそうです。太平洋戦争開戦の日、北大で起こったスパイ冤罪事件「宮澤・レーン事件」のレーンさんの教え子でよくレーン家でコーヒーとクッキーをごちそうになっていたそうです。宮澤さんが犠牲になり、レーン夫妻も再び日本で教鞭をとるようになっても大変な思いをしたも関わらず、事件のことを口にすることなく、学生の論文や留学の世話をした方です。

多一さんは滝上の田舎で育ち、苦労されて北大に進まれました。お兄さんは沖縄戦に駆り出され、今なお行方不明のままでした。何度も沖縄に行かれたそうです。多一さんの作品にはそんな経験がそこに流れています。奥井とは遠縁に当たり、市役所のお勤めの頃からお世話になっていたようです。そんな縁で理の遺稿集を自費出版で出すとき、理のことをわかっていただき、いいあとがきを書いていただきました。さらに道新から出版されるきっかけを作っていただきました。

この一人の青年            加藤 多一                奥井理さんは、かなりの数の自画像を残しています高校一年のときのデフォルメの強いもの一点、高校二年のもの二点、高校三年のもの三点、高校卒業後十八歳のもの五点、十九歳のもの二点。十八歳で描いたノ「老いた僕」と題された作品は油彩・F10号のもので、八十歳代と思われる男がきつく口を閉じ、深いしわと眼、つまり体をすべて使って、自己凝視している。彼はこのとき自分の人生の全体像を見たのでしょうか。                        日記のように善かれた文章のなかに、次の一節があります。                                                  見えない自分を描こうとすればJ傷つくことの方が多い。/忘れたいことの方が多い。/それを/目の前に突き付けることにより/見えてくる。(中略)何に怯え/ここまで来たのか。/自分の内面をえぐり出す。/自分の目、口、鼻、耳を振リ返って見る                        ひとりの高校生のことばが、六十三歳の私の現在を烈しくゆさぶるのは、自分がどう思われるかどう評価されるかばかりに気をとられ、自己を見つめる力が弱くなっているからだ、としみじみ思うのです。 「みがく」という象徴的な名をもつこの人は、十九歳で次のようにも書きます。            「そのの雑念が、自分自身を平面的な物にしている。物事を凸凹でとらえ、触れ、感じることによってのみ、成長がある。そのためには、24時間すべてを凸凹で感じ、絶対に頭の中に平面的な物を入れてはならない(後略)」

自分のことを六十三歳と書きましたが、人間を職業や性別で「区分」して納得しがちな私自身が、おくいみがくという名の精神によって正体を洗い出され平面的思考の安易さを指摘されていることに、これを書きながら気づきました。・・・                                                          そして、彼の若すぎる死、私の体の内外に肉薄して存在している死に直面させられます。                                      この本に収録されていないが、中学三年の時の学年文集で、彼は「何かの拍子に地球ができて、人間が生まれ、そして僕がいる。」というとらえ方をする。自己認識と外部世界の認識。その一方では (それゆえにというべきか)、テレビでモザンビーク内戦を見て「僕はショックでした。僕たちの生きている地球で、そんなことが起きているとは 」と書きます。また、朝鮮人の強制労働や湾岸戦争についての政府の方針を批判しています。・・・                                   友人である奥井則行さんと奥さんの登代さんから「何か書いてほしい」といわれたとき、少しためらいました。                              しかし今は、奥井理というひとりの人間の精神に出会えた喜びがあります。     (童話作家)

加藤多一さんの詩集から

この国の国民は漢字を使っているせいか 言葉の「言い換え」にめっぽう弱い。

例えば「武器輸出」を言い換えて、「防衛装備移転」なんていい始めるのだ。

日本国民はこの「言い換え」で過去どれほどダマサレて来たか。

「軍隊全滅」を「玉砕」といい、「退却」を「転送」といい、

敗戦を何と「終戦」と呼ばされた。

敗戦というとその責任がきびしく問われる。

しかし、「終戦」というとなにかわからんうちに終わっていた、という感じだ。

「終戦」と呼ぶ限りは最高権力者の責任は問われない仕組みだ。

アジア太平洋戦争の責任は誰も取っていない。

勝者がやったのが「東京裁判」だ。

最高責任者(誰なのかはみんなわかっている)は責任をとっていない。

最高責任者でも責任をとらなくてもいいーこの心情が国民に定着済み。        「 詩集 タイチの場合」から